池田大作さんの妻は香峯子(かねこ)さんとなります。
年齢は1932年2月27日生まれの91歳となります。
父親は砂糖取引会社の常務で、母親は実家が岐阜で村長をされていました。
兄弟は、姉・兄・弟がいます。
そんなお嫁さんは東京都品川区で生まれ育ち、1950年に女学校を卒業後に都内の銀行に勤務されました。
元々、池田大作さんと妻の香峯子さんの兄は、戦時中の学徒動員で知り合いでした。
その後、戦後になり、創価学会の会合の帰り道の電車で、久々に池田大作さんとお嫁さんの兄が再開し、その時にお嫁さんを池田大作さんに紹介しました。
そして、妻の香峯子さんは20歳の時の1952年5月3日に結婚されています。
その後、お嫁さんは池田大作さんを支えて来られました。
当記事では、妻の香峯子さんの情報やエピソードについて書きました。
池田大作の妻(嫁)の年齢は91歳!奥さんのプロフィールは?
池田大作さんの妻の香峯子(かねこ)さんですが
- 旧姓:白木かね
- 年齢・生年月日:1932年2月27日生まれの91歳
- 出身地:東京都大田区
嫁(妻)の香峯子は4人兄弟!
妻の香峯子さんの家族ですが
父親の白木薫次さんは、砂糖取引会社の常務で、創価学会の理事を歴任されています。
母親の名前は静子さんで、母親の実家は岐阜で村長をされています。
姉がよしさん、兄が文郎(ふみお)さん、弟が周次(しゅうじ)さんです。
白木家では、代々女性に「さい」「らく」「いし」などかな2文字の名前が付けられていたので、妻のかねさんの名前は祖母が付けてくれたそうです。
創価学会に入会したきっかけは?
母親は妻の香峯子さんを生んだ後に産後の肥立ちが悪くなってしまい生脈炎に掛かりました。
その時に、隣の家の人が心配し、創価学会の入会を勧めてくれました。
そして、1年程考えたのちに、1941年7月12日に家族で創価学会に入会されました。
池田大作の妻(嫁)の若い頃の画像が綺麗過ぎ!
こちらが、池田大作さんの奥さんの若い頃の画像になります。
引用:Youtube
引用:アメブロ
池田大作さんの妻の香峯子さんは若い頃から非常に綺麗な方ですね。
池田大作の妻(奥さん)の経歴は?
お嫁さんは、東京都品川区で生まれ育ちました。
父親の勤務してた砂糖会社が戦争により事業ができなくなり、1945年4月13日に岐阜の山奥に母親・兄・弟で疎開をされました。
そして、終戦の1か月前に岐阜の大空襲にあい、家族で叔母の知り合いの家に避難されたそうです。
お嫁さんが女学校の1学期の時に終戦になり、2学期の終わりまで岐阜で過ごし、兄とお嫁さんで横浜の叔母の家に住みます。
その後、生まれた東京品川区に戻り、家計を助ける為に学校に通いながら、土日でパン工場や病院でのバイトをされていました。
1950年に女学校を卒業し、都内の銀行に勤務されました。
進路を決める時には、医学部や薬学専門学校なども考えていました。
1960年5月3日、池田大作さんが創価学会の3代目に会長に就任した時に、お嫁さんは
これは、主人の使命であり、主人でなければできない仕事なのだから、主人が精一杯、仕事ができるように、私は努力しよう
引用:池田大作先生の足跡
と決意をされました。
池田大作さんが国内外に出張時には医師の強い要望で、お嫁さんも付いていき、海外の宿泊先で米を炊き、お粥(おかゆ)など作ったりされていました。
2007年3月21日、サンタマリア大学名誉法学部博士号を取得されています。
池田大作と妻(嫁)の香峯子との結婚するまでの馴れ初めは?
妻の香峯子さんは、1952年5月3日に池田大作さんと結婚されました。
1951年の夏に池田大作さんとお嫁さんは出会いました。
戦時中に池田大作さんが蒲田の新潟鉄工所時代に荏原中学校の学徒動員として奥さんの兄が来ていました。
兄と妻の香峯子さんが行った創価学会の会合の帰り道の電車で、兄と池田大作さんが戦後会っていなかった2人で再会し、「妹です」と香峯子さんを紹介し、池田大作さんは「そうですか」と会釈をされました。
この当時、妻の香峯子さんは銀行員をされています。
その後、池田大作さんと香峯子さんが何度か顔を合わせるようになりました。
当時、妻の香峯子さんは池田大作さんを憧れで見てはいましたが、結婚などは考えてもいませんでした。
交際のきっかけは?
ある日、池田大作さんが学会員宅で予定されてた会合に行った時に、みんなが来るのを待ってたお嫁さんが1人だけいたそうです。
その時に、池田大作さんが持ってた紙に
我が心 嵐にむかいつつ
我が心 高鳴りぬ
嵐に高鳴るか 我が心よ
あらず 秘めやかに高鳴るを知りぬ
ああ 我が心
汝の胸に 花咲くを願いたり
引用:Youtube
と言う詩を書いて渡した事で、妻の当時、妻の香峯子さんは結婚する気持ちになったそうです。
この詩を妻の香峯子さんはずっとハンドバックに大事に入れてて、今でも大事に持っています。
その後、駅で一緒に乗り合わせをされる様になり、手紙での文通が始まりました。
プロポーズの言葉は?
そして、池田大作さんはお嫁さんに
と言いプロポーズをされました。
さらに、池田大作さんは
生活が困窮していても、進まねばならぬ時があるかもしれない。
早く死んで、子供だけと取り残されるかもしれない。それでもいいのかどうか、と。
とお嫁さんに聞いたそうです。
それに対し、妻の香峯子さんは微笑みながら「結構です」と言ったそうです。
妻の香峯子さんは19歳時に婚約が決まり、結婚したのが20歳でした。
母親は当初は「結婚はまだ早い」と思っていましたが、最終的に応援をしてくれたそうです。
結婚を機に、第2代創価学会会長の戸田城聖さんから現代的な漢字で「香峯子」の命名して貰ったそうです。
両親もこれには非常に喜んでいました。
さらに、結婚式では戸田さんから
と言われたそうです。
結婚指輪にはダイヤが2つついてるものを貰いました。
2つついてるのは「2人」と言う意味だそうです。
後々になり、結婚指輪がダイヤではなくジルコンだった事が分かりました。
結婚後のエピソードは?
池田大作さんとお嫁さんとの新婚生活はとても質素だったそうです。
結婚当初、池田大作さんはかなり細く、常に微熱がありました。
なので、池田大作さんの健康面を支える為に、お嫁さんは食事面を工夫されたりしていました。
池田大作さんは奥さんが作ったさばの煮つけが大好物だったそうです。
さらに、池田大作さんが講演が終わった後に奥さんがマッサージをされていました。
1979年に池田大作さんが会長を勇退し間もない頃に、妻の香峯子さんが会員の人達への返事の手紙を書いて肩が凝ってた時に、結婚以来初めて池田大作さんに肩をもんでもらったそうです。
池田大作さんは奥さんについて
妻は私にとって、人生の伴侶であり、ときには看護師であり、秘書であり、母のようであり、娘か妹であり、何より第一の戦友です
妻に感謝状をあげるならとして、『微笑み賞』でしょうか
引用:池田大作先生の足跡
とコメントされています。
以上が、池田大作さんの妻の香峯子さんに関する記事ですね。
コメント