財津一郎の奥さん(妻)の顔画像が美人!嫁・ミドリに土下座し求婚!

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財津一郎さんの奥さんはミドリさんで、2020年2月に89歳で亡くなっています。

奥さんとは、財津一郎さんが25歳時に、28歳の奥さんと当時所属してた石井均一座で出会いました。

そして、奥さんが他の人と縁談話がまとまり掛けてた事があり、その時に財津一郎さんは一か八かで土下座しプロポーズをしました。

それに対し、奥さんははなかみながらうなずいたそうです。

近年、財津一郎さんは奥さんの介護をされていました。

全ての家事を財津一郎さんが行ってて、かなり大変でしたが、この事で長年淡々の家事を続けてた奥さんへの感謝を感じたとか。

当記事では、財津一郎さんの奥さんの情報やエピソードについて書きました。

こちらの記事では財津一郎さんの息子さんについて書いてあります。

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目次

財津一郎の奥さん(妻)の顔画像が美人で凄い家柄!

財津一郎さんの奥さんは、ミドリさんとなります。

妻は、2020年2月に89歳で亡くなっています。

財津一郎さんは、奥さんの事を「ママ」と呼んでいます。

財津一郎さんの奥さんですが

  • 色白
  • 身長が高い
  • 目が大きく
  • おっとりで無口
  • 父親は建築家と言ういい家柄出身

と言う女性です。

奥さん(妻)との出会いは石井均一座!

財津一郎さんと奥さんとの出会いは、25歳の時に財津一郎さんが所属してた石井均一座で、奥さんはそこで舞台女優を務めてて、当時29歳でした。

そして、財津一郎さんは「今後、こんな素晴らしい人には出会わないだろう」と思ったそうです。

と言った感じで、財津一郎さんは奥さんに一目惚れをし、仲良くなるきっかけを作る為、毎日家まで送って行きました。

奥さんの実家は、佐藤栄作さんの家のそばにあったので、財津一郎さんは佐藤さんの家に近づき「栄作君、栄作君」と言いふざけると、奥さんは笑ってくれたそうです。

奥さん(妻)には土下座し求婚!

当時、奥さんは他の人との縁談話がまとまりかけていました。

なので、財津一郎さんは劇団の稽古帰りに、奥さんに土下座をし、「お願いだから一緒になってください。」と言いました。

奥さんは驚いていましたが、はにかみながらうなずいたそうです。

そして、奥さんと1960年春に結婚します。

結婚当初は貧乏暮らし

結婚当初は、財津一郎さんは俳優として売れておらず、かなり貧乏な生活でした。

当時、大阪の田んぼの中にある4畳半の小屋を借りるも、お金が払えず出て行く事になり、見かねたお坊さんに寺の納骨堂の横の納屋をタダで貸してくれ、そこで奥さん・息子さんと暮らしていました。

ただ、当時は、お金がなく、息子さんが熱を出しても病院にも連れて行く事が出来ませんでした。

なので、奥さんが怒って、息子さんを連れ出て行くのでは?と財津一郎さんは常に不安に感じていましたが、奥さんは愚痴一つ言いませんでした。

家計が貧乏だったので、奥さんは移動劇団の一員として地方を回り、支えています。

嫁入り道具を売り、生活の足しに

ある日、奥さんは嫁入り道具の帯と着物を売り、大きなお金に変えて

これを生活費に充ててください

引用:週刊現代

と言ってくれたそうです。

財津一郎さんは、奥さんの気持ちに感動すると同時に、「奥さんに2度とこんな惨め想いをさせてはダメだ」と思いました。

さらに、この事以降、財津一郎さんは奥さんに頭が上がらなくなります。

その後、財津一郎さんは売れて人気者になり、奥さんと息子さんの為に仕事を頑張りました。

入院がきっかけで仕事を辞める

1995年に財津一郎さんは脳出血で1ヵ月以上入院し、その時に奥さんが毎日お見舞いに来てくれ、その頃から少しずつ

残された時間は、ママと二人で過ごすために使いたい

引用:週刊現代

と思い出し、2011年「3年B組金八先生ファイナル」を最後に、仕事を辞めます。

その後は、ゴルフを奥さんと一緒に回るなどかけがえのない時間過ごします。

奥さんは裁縫が趣味で、財津一郎さんのゴルフクラブのカバーは、すべて奥さんが編んでくれた宝物だそうです。

財津一郎の奥さん(妻)の介護エピソードは?

その後、奥さんの身体は弱って行きます。

2019年の秋に廊下で倒れて右手首を骨折した辺りから急激に悪化していったそうです。

奥さんは、廊下で倒れて以来、躓きそうな場所を怖がり、家からも出なくなって行きました。

家事を全て財津一郎が行う

この頃から、全ての家事を財津一郎さんがこなす様になり、毎朝4時半に起きで、掃除・ゴミ出しを済ませた後に、朝ご飯を作っていました。

財津一郎さんは、今までの人生で、包丁すらまともにまともに持った事がなく、家事は大変でしたが、奥さんがどれだけ大変な事を続けて来たかが分かり、感謝の気持ちが増しました。

特に、電動カートで食料を買い物に一人で出かけ、重い荷物を抱える事は、足に障害を抱える財津一郎さんにとってはしんどかったそうです。

介護サービスを理由しなかった理由は?

財津一郎さんは、介護のサービスの利用を一時考えましたが、奥さんの気持ちを考えると、行う事が出来ず、最後まで財津一郎さんが行いました。

介護をするなかで一番苦労したのが、ママをお風呂に入れることでした。抱っこして、浴槽に入れるだけで、汗だくになる。

『人に頼めたらどんなに楽だろう』と考えたことは何度もある。でも、そのたびに『僕以外の人に入浴させられたら、ママはどんな気持ちになるだろうか』と、心苦しさが勝った。結局、最後まで、僕が入浴させました

この様な事が出来たのは、財津一郎さんは自分が今まで生きてこれたのは、奥さんのお陰と考えていて、若い頃から苦労を掛けて来た奥さんにご奉仕をしたかったそうです。

奥さん(妻)の最後の言葉は?

2020年1月に財津一郎さんは病院で膀胱に血の塊が見つかり、緊急手術を受ける事になります。

手術後に、息子さんから奥さんの肺機能に問題が起き、自力で呼吸ができなくなり、財津一郎さんと同じ病院に運ばれた事を聞きます。

その後、手術の影響で財津一郎さんは起き上がれない日々を過ごすも、奥さんの事を考えると、心配でたまりませんでした。

そして、手術後に痛みを我慢し車椅子に乗って、別の病棟の奥さんの元に行きます。

奥さんは人工呼吸器を着け苦しそうで、会話ができる状態ではありませんでした。

その後さらに、奥さんの状態は悪くなります。

そして、2020年2月6日の午後に財津一郎さんは、奥さんのベッドから1mくらいの距離に近づき、奥さんの顔をじっと見てると、奥さんはかすかに目を開け、絞り出すよう

パパ、ありがとう。感謝してるよ

引用:週刊現代

と言われたそうです。

そして、この言葉が奥さんの最後の言葉でした。

さらに、財津一郎さんはこの奥さんの最後の言葉はずっと今でも耳に残ってるそうです。

財津一郎さんは、奥さんが亡くなった後でも、毎朝起きると、遺影に話しかけています。

他人行儀に感謝の言葉をかけるような夫婦じゃなかったから、あんなふうに言われるとは思いもしなかった。きっと、ママはお迎えがそこまで来ていることを悟っていたんだろう。あの言葉は、ずっと耳に残っています

財津一郎さんが奥さんと長年住んでた家は、お湯が出なくなる程古くなっていましたが、足が悪い財津一郎さんには少し不自由でしたが、終の住処にする事を決めていたそうです。

朝起きて、夜寝て、また朝が来る。変わらない日々の繰り返しだけど、僕にはこの家を守る義務がある。ママとの思い出がたくさん詰まっているからね。家をやつれさせてはいけない。

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